仕事を終えた一甲が戻った時、おぼろ研究所は無人だった。
こんなことは滅多にないことだが、それぞれなにかと忙しいこの頃、こんなこともあるかと彼はソファに腰を降ろした。
もうじき、ここには「帰る」のではなく「訪れる」ようになるのだなと、彼らしくない感慨にふけりながら雑誌を捲っていたとき。
よく知った気配と、その持ち主に似合わぬ騒々しい足音が飛び込んできた。
どうした、と訊くより先にその人物、一鍬が口を開いた。
「兄者!俺はチベットに行く!」
開口一番そう宣言した弟に一甲は眉を寄せた。
全身から水を滴らせ、色を無くした表情から、大体なにがあったか想像はつく。が、今回は状況がかなり深刻なようだ。
「なにがあった?」
「・・・もうよいのだ兄者。結局俺は忍びの道を究める運命なのだ」
拳を握りしめ、一鍬はうなだれた。
「七海となにかあったのか?」
単刀直入に一甲は訊いた。今現在の状況で一鍬をここまで追いつめるのはそのこと以外にあり得ない。
小さく頷いて一鍬は先ほどの顛末を語り始めた。
「・・・なるほど、話はわかった」
静かに一甲は頷いた。
さてどうしたものかと考える。
今回の件、もちろん考えの足りない一鍬も悪いが、親切とは言え先走りすぎた鷹介に非がある。
一甲の脳裏にハイテンションでお節介を焼く可愛い恋人の姿が浮かんだ。
やはりここは自分が動くしかないか、と一甲は立ち上がりかけ、ふとその研ぎ澄まされた五感に触れた気配に気づいた。
「一鍬、チベットへ行くのは早計ではないか?」
だが、煮詰まってしまっている一鍬はその気配に気づいていないようだ。
「いや、七海に嫌われてしまった以上、俺には修業の道しか残されていない!」
苦しげにそう叫ぶ一鍬の肩に一甲は手をかけた。
「まだそうと決まったわけではなさそうだぞ」
「?」
兄の言葉に一鍬が疑問符を浮かべたその時。
「「一鍬・・・」」
遠慮がちな足音とこれまた遠慮がちなユニゾンの声。
「七海・・・鷹介・・・」
振り返って目にした二人の名を呟いて、一鍬は兄を見た。
「まだ運命を口にするのは早いということだ」
一甲はそう言い、入り口で立ち止まっている二人に近づいた。
「一甲・・・」
鷹介が情けない声を出す。怒られるとでも思っているのだろう。
その肩に一甲は腕を回した。
「行くぞ」
「え?」
「ここは七海に任せておけ・・・そうだな、七海?」
一甲は穏やかに七海を見た。
鷹介は二人をキョロキョロと見比べる。
七海は力強く頷いた。
「うん。ありがと、一甲」
「おい、一甲ちょっと待・・・うわっ!」
抗議の声を上げかけた鷹介を一甲の腕が強引に抱き寄せる。
「ではな」
風だけを残し、一甲は鷹介とともに姿を消した。
残された二人はしばらく一甲と鷹介が消えた空間を見つめていた。
静寂が落ちる。
互いに言いたいことはたくさんある。
しかし二人とも目を合わせるのを怖れているかのように同じほうを向いて黙っている。
「七海・・・」
ついに一鍬が口を開いた。
「七海、俺は・・・」
「行っちゃダメ!」
一鍬の言葉を遮って七海が叫んだ。
ゆっくりと振り返り、一鍬を見つめる。
「気づかなくてごめん。一鍬が引っ越しのことそんなに悩んでたなんて、あたし全然知らなかった」
「それは・・・」
一鍬は口ごもった。
実は七海には必死に隠していたのだ。彼女の手前、住むところすら決められないなどあまりに情けないと思ったからだが、結果として最低に近い形で露見してしまった次第だ。
そんな一鍬をどう思ったかは分からないが、七海は静かに言葉を続ける。
「あたし、たぶん・・・自惚れてた。今一番、一鍬のそばにいるのはあたしだって・・・でも、よく考えたらここしばらく仕事ってばっかりで、一鍬とゆっくり話してない。さっきだって一鍬はあたしのために動いてくれたのに、事情も聞かずに酷いことした」
じっと見つめる七海の視線に一鍬の鼓動が跳ね上がた。
「いや・・・俺も・・・軽率、だった」
加速する心拍数をどうすることも出来ず、ぼそぼそと答えるのが精一杯の一鍬である。
「ううん、軽率なのはあたし・・・ごめんね、一鍬。大嫌いなんて言ってごめん!」
ぴょこんと七海は頭を下げた。
ここで「気にするな」とか「俺は気にしていない」という言葉が出れば立派なものだが、あいにく未だに恋愛初心者マークの一鍬にはそこまでの器量はなかった。
「な、七海、いや、その・・・」
なんとか言おうとするが、やはり言葉は出ない。
しかし七海にもそんなことを気にする余裕はなかった。
「都合がいいのはわかってるの!だけど、取り消させて!・・・大嫌いなんてウソよ!もう、全然、嘘なんだから!」
「あ、ああ・・・うむ、その・・・わ、わかった」
やっとの思いで一鍬がその言葉をひねり出す。
この期に及んでやはり気の利かないことこの上ないが、その言葉は七海の顔を輝かせた。
「ホント?ホントにホント?」
「あ、ああ」
「じゃあ、もうチベットに行くなんて言わない?」
「い、言わない・・・七海に、その、嫌われてない、なら・・・」
「嫌いじゃないよ。好き。大好きよ、一鍬」
ぽっと七海の顔が朱に染まった。
自分で告白して照れたらしく、真っ赤な頬を手で押さえてじたばたしている。
だが、受け取った一鍬はさらにパニックだった。
ダイスキ。
だいすき。
大好き。
七海の声が再び一鍬の脳を埋め尽くす。
しかし先ほどとは正反対の言葉。
「な、七海・・・」
情けなくも声が上ずった。おそらくは顔も真っ赤だろう。
ふわり、と七海が笑った。
ぎゅっ。
その笑顔ごと一鍬は七海を抱きしめた。
「七海っ!お、俺は・・・いや、お、俺も、す、好きだーーーっ!!」
霞一鍬、渾身の告白。研究所の岩壁を揺らしたその告白が疾風の里まで届いたと、後々の語り草になるとは、このときの二人は知る由もなかった。
☆もうちょっと続きます。どれを読むかは選択制☆
気になるあの二人を追いかけるならこちら→
そんなものすっとばしてエンディングに行くならこちら→
TOPに戻るならここを押してくださいね。