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伝通院洸が医局に戻ってきたのは午後10時を少し回ったころだった。
それでも今日の非常招集は早く終わったほうで、患者の容体も安定しているのでもう上がっていいと、外科部長から許可が出ていた。
「10時か…」
壁に掛かったシンプルな掛け時計を見上げて伝通院は呟いた。
非常に微妙な時間である。
決して遅い時間ではないが、早いとも言えない。
それでも恋人に電話をかけるのをためらう時間でもなかった。
だが、天馬は今どうしているのか…?
携帯電話の電源を入れた瞬間、伝通院の脳裏に別れ際のあの光景が浮かんだ。
夕日を背景に近づく顔と顔。片方は天馬、そしてもう一つは…。
「ロギア…」
うなるような声で伝通院はその名前を呟いた。
なぜロギアはあんな行動を取ったのだろう?
「レムルズに寝首をかかれる」と伝通院を名指しして行動したわけだから、これはそう、あれだろう。
すなわち、ロギアは天馬と伝通院の関係を知っていて、なおかつ彼が天馬と接触するのを伝通院が快く思わないと考えているということだ。
快く思わない?
いやそんなものではない。今思い出すだけで腸が煮えくり返りそうだ。
なぜあの場でブン殴ってやらなかったのかと思う。
もし、あの一甲と言う男が同じ立場だったら、確実に血の雨を降らせただろう。なにせ伝通院と鷹介が話していただけでユウヒを機能停止にした男だ。
あそこまで極端でなくとも、天馬から引き離して「手を出すな」とくらいは言っておくべきだった。今頃になって煩悶するくらいなら。
そこまで考えて、伝通院はフッと笑った。
(バカか、俺は…)
出来るものならやっている。
出来なかったからしなかったのだ。
なぜか?
答えは簡単だ。
考えるまでもない。
自信がなかったからだ。
慌ただしかった今日の午後中、ずっと二人を見ていた。
ロギアと話す天馬は本当に楽しそうで。
自分といるときの天馬はあんなに楽しそうだっただろうか?
「ずっと地球にいればいい」と天馬は提案していた。
それはずっとロギアと一緒にいたいということなのではないか?
嫉妬に裏打ちされた疑念はとどまることを知らず、確実に悲観的な方に結論を急ぐ。
そういえば2週間も会ってなかった、とか。
その時も確か緊急コールで別れたのだった、とか。
それきり、メールでしか連絡を取っていなかった、とか。
負のスパイラル。
果てに行き着く結論はもはや天馬の心は自分にはないのではないか、という憶測。
「天馬…」
伝通院はのろのろと首を動かし、再び手の中の携帯端末を見た。
今、電話すれば天馬がどこでどうしているか分かるだろう。
だが指は動かない。
 不在着信0件
 未読メッセージはありません
無機質で事務的な画面はただ静かに持ち主の指示を待って…やがて待ちくたびれたように暗転した。
それでも伝通院は電話をかけることが出来なかった。
電話をして、もし天馬のそばにロギアがいたら、と思うとーそんなことはないと自分に言い聞かせてもー行動に移せないのだ。
だん、と伝通院は机をたたいた。
はずみで携帯電話が手を離れ、床に転がった。
それを拾う気にもなれない。
自分でもおかしいのはわかっている。
意気地のないのもわかっている。
わかっていて、どうにもできない。
なにも行動に移せない。
できる事といえば檻の中の熊のように狭い室内をウロウロすることだけ。
ふと手を上げたら山積みになった専門書が崩れ落ちた。
どんな症例に困った時でも何らかの手がかりを与えてくれるそれらだが、今はなんの役にも立たない。
これは医者には治せない病。
笑い話でもなんでもなく、伝通院洸を蝕んでいるのはまさにそれだった。

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