霞一鍬くんの悩める日常

春まだ浅い3月。
伝説の後継者たちは新たな生活を始めようとしていた。

そんなある日。
いつものように現場での仕事を終えた一鍬は兄とともに、おぼろ研究所への道を歩いていた。
ふと、一甲が足を止めた。
「どうした、兄者?・・・ああ」
兄が立ち止まって見ているのは、不動産屋のウィンドウ。
窓を埋め尽くすほどに貼られた紙に、簡単な部屋の見取り図と、暗号のような文字列が書かれている。
「よさそうな物件はあるか?」
引っ越しを一番真剣に急いでいるのは何を隠そうこの兄である。
『いつまでもおぼろ殿に迷惑をかけていてはいかぬからな』
とは兄の弁であるが、本音が『はやく鷹介と二人きりになりたい!』なのは周知の事実である。
兄が人生の伴侶に椎名鷹介を選んだことは今も手放しで祝福できるとは言い難いが、それについてはもう何も言うまいと、兄が幸せならそれでいいと一鍬は思っていた。
だが。
いままで当然のようにそこにあったものが相次いで消える・・・それを寂しい、と感じているのも事実だ。
「やはりお前も一緒に暮らすか?」
不意に一鍬の方を向いて一甲はそう言った。
(一緒に?・・・兄者と鷹介と?)
一瞬の想像。
慌てて一鍬は首を横に振った。
一鍬の不安を感じ取ってであろう兄の気遣いは有り難いが、それはとんでもなく恐ろしい申し出だった。
一人で暮らすのにはもちろん寂しさも不安もあるが、だからといって、あの「最強ベタベタ甘々砂吐きバカップル」と一緒に暮らせるほど一鍬の神経は太くない。
それに。
(七海・・・)
最愛の人、と言って間違いない彼女と・・・今はまだやっと恋人になれたばかりだが、できればもっと親密に・・・いやできれば将来、共に暮らしたい、と夢見る一鍬にはこれは最大のチャンスであった。
なにしろやっと思いが通じたとは言え、今の7人雑居状態では七海とゆっくり語らうこともできない。
兄のように要領良く恋人同士の時間を作れるほど(と言ってもバレバレなのだが)一鍬は器用ではなかった。
(そうだ、兄者や鷹介が一緒ではいまと同じではないか。いや、吼太がいない分今より悪いかもしれない)
「ファミリー向けの3DKクラスなら物件も・・・」
「い、いや兄者!」
長男らしく段取りを進めようとする一甲を一鍬は遮った。
「兄者、申し出はありがたいが、俺もこの機会に独り立ちをしてみようと思う!」
(そうだ、そして七海と・・・!)
ささやかな希望を胸にぐっと拳を握りしめ、背後に炎を燃やす一鍬。どこか間違った気合いの入れ方だが、あいにくそれを指摘する者はこの場にはいない。
唯一の立会人は「一鍬も大人になったな・・・」などと、これまたトンチンカンな感慨にふけっているのだった。

しかし。
兄に大見得を切ったものの、引っ越し先はなかなか決まらず。
そうこうしているうちに、兄はさっさと新居を決めてしまい、続いて七海と吼太もそれぞれの住まいを決めてきてしまった。
七海はプロダクションが用意した比較的セキュリティの整ったマンション。吼太は介護福祉士として正式採用された病院の独身寮だ。
「はあ・・・」
読み飽きた住宅情報誌を机に置き、一鍬はため息をついた。
ぜいたくを言っているわけではない。ついこの間まで洞窟だの廃寺だので暮らしていた身だ。別に住むところなどどうでもいいのが本音で、実のところそれがかえって選択を迷わせているのだった。
そのとき。
「たっだいま〜!あれ?一鍬ひとりか?」
元気よく鷹介が帰ってきた。相変わらずの元気よさに一鍬は軽い目まいを覚える。
「兄者でなくて悪かったな」
むっつりと一鍬は答えた。
「兄者ならおぼろ殿と書庫だ」
言外に早く行けと匂わせたつもりだったが、兄との新(婚)生活を前にして、まさにこの世の春状態の鷹介には通じなかった。
「なーに暗くなってんだよ!」
そう言って一鍬の座っているソファににじり寄ってくる。
「あ」
鷹介が机の上の住宅情報誌に止まった。
しまった、と一鍬は思ったが後の祭りである。
「そっか、まだ決まらないのか・・・」
鷹介の声がトーンダウンする。一応、自分が彼ら兄弟の間に割り込んだような形になっているのを気にはしているらしい。
「お前には関係ない」
全く気にされないのも癪だが、同情されるのもごめんだった。
だが、そんな一鍬の心情も次の鷹介の一言で吹き飛ばされる。
「よし、オレが手伝ってやる」
「え?」
一鍬が止める間もなく、鷹介は住宅情報誌を取り上げめくり始めた。
「よ、鷹介、構うな。俺は自分で・・・」
慌てて一鍬は断ろうとするが、鷹介は聞く耳を持っていない。
「いいって、いいって、気にすんな。こういうのはさ、都会育ちのオレのほうが絶対得意だって」
ページをめくりながら鷹介の背中が言う。
ふむ、と一鍬は頷いた。
言われてみればそんな気もする。
そしてそれを拒否するには一鍬は困りすぎていた。
「え〜っとまずは場所だな・・・やっぱ、一甲とおんなじ仕事なんだからオレたちと近い方がいいよな」
「あ、ああ・・・まあ・・・」
実際のところ都内であればどこでも距離を感じない程度の足を持っている一鍬である。だが、鷹介の言うように近いに越したことはない・・・のかもしれない。
「待てよ」
突然、鷹介が振り返った。
ニヤリと笑ったその顔に嫌な予感が走る。
「それとも七海んちと近い方がいいか?」
「七海の家・・・?」
鷹介の意図が分からず首をかしげる一鍬。
「七海の家に近いとどういう利点があるんだ?」
「まーた、しらばっくれんなよ。つきあってんだろ?七海と。ちゃんと恋人同士として」
「こっ・・・!」
瞬時に一鍬は耳まで真っ赤になった。相変わらず純情一直線な彼である。
「あ・・・まあ、その・・・それは・・・そう、だが・・・」
「だろ?だったらさ、やっぱお互いのうちに行くじゃん」
「!」
雷に打たれたような衝撃が一鍬を貫いた。
今の今までそんなことを考えたこともなかった。一鍬にとっては住居=隠れ家、他人を招き入れるという概念は完全に欠落していたのだ。
ここおぼろ研究所でも用のあるとき以外は七海の寝室に入ったことなどない。逆もまた然りである。
「七海が俺の家に・・・」
「そうそう。たとえばだ、デートの帰りなんかにさ、俺の部屋寄ってく?なーんて言ってさ、コーヒーでもとかいいながらちょっといい雰囲気になってそのまま・・・な〜んてこともあるわけじゃん」
「そのまま・・・」
「そ。でも家が遠いと、明日早いからとか言って泊まってくれないかもよ」
冷静に考えれば七海とて忍者、さほど距離が重要なわけはないのだが、衝撃冷めやらぬ一鍬はそれに気づかない。
「泊まって・・・」
「そうそう。で、やっぱこう自然とエッチな感じに・・・」
鷹介の語るシチュエーションが一鍬の脳裏を流れていく。
妙に生暖かいその幻想・・・。
「うわっ、一鍬!鼻血!」
鷹介が飛び退く。
「む?あ?ああっ!」
慌てて鼻を押さえる一鍬。
ティッシュの箱を差し出す鷹介。
どうにかこうにか、鼻に詰め物をし、床に飛び散った血を拭き終えたところに、招かれざる客、もとい、今一番帰ってきて欲しくない人物が帰ってきた。
「たっだいま〜♪あら、一鍬、どうしたの?」
「な、七海・・・いや、その、な、なんでもないぞ」
あたふたと一鍬が立ち上がる。鼻からティッシュを垂らしたその姿には百年の恋も冷めそうだ。
「そ、そーそー、なんでもな・・・うわっ!」
続けて立ち上がった鷹介が机に積まれていた雑誌の山を突き崩した。
その「ほとんど」は住宅情報誌だった。
だが。
「いっしゅう〜〜〜〜」
きっかり1オクターブ低くなった七海の声が一鍬の名を呼んだ。
その視線が凝視しているのは床に散乱した雑誌の山。その一番上で大きくページを開いているのは・・・。
「な、七海!こ、これは、関係ない!」
氷点下に急下降した室温の中で、渦中のヌードグラビアだけが艶然と微笑んだ。
「お、俺は断じてこんなものは・・・」
一鍬の弁解は言い切ること叶わず。
「水流波!」
掛け声とともに水の塊が視界を覆ったからだ。
「一鍬のスケベ!!」
バタバタバタ・・・と足音も高く七海は駆け出して行った。
「あ、七海ーーーーー」
追う一鍬の叫びは虚しい。鼻のティッシュが水を滴らせている様は無様としかいいようがない。
呆然と立ち尽した一鍬は次の瞬間、憤然と振り返った。
「鷹介っ、お前のせいで誤解されたではないか!」
多少、八つ当たりかもしれないが、鷹介がいなければこの悲劇は防げたはずである。
しかもさらに腹の立つことに鷹介は全く水を被っていない。
「ごめんごめん」
口ではそう言いつつも全く悪びれた風のない鷹介は水浸しになった雑誌の山から問題のグラビアを取り上げた。
「でもさ、これ見て鼻血出したってのと七海の裸、想像して鼻血出したの、どっちがマシだと思う?」
しれっとした顔で大開きのヌードグラビアを眼前に突き出されて、一鍬は激しく頭痛を覚えるのだった。

続く