<3>

「参ったなあ・・・」
鷹介は真っ暗闇のなかで、そうため息をついていた。
「一甲、怒ってんだろうなあ・・・」
今頃は楽しくデートしているはずだったのに、どうしてこうなったのか。
鷹介はもう一度大きなため息をついた。

余裕を持って事務所を出たまではよかった。
あまりの嬉しさに走っていたのも問題ない。
途中で大量の荷物を抱えた婆ちゃんを見かけて思わず家まで送ってあげてしまったのは・・・ちょっと余計だったかもしれない。
(けど、その時点ではまだ走れば間に合う時間だったんだ・・・)
しかし、それで近道をしようとしたのは間違いだった。
路地を抜け、大都会のすき間を流れる小さな川にかかる橋を渡りかけたときだった。
ふと誰かの叫び声を聞いた気がして鷹介は足を止めた。
周りにいた数人の歩行者と一緒に川を覗き込む。
「大変だ!」
誰かが叫んだ。
なんとお世辞にもきれいとは言い難い川の真ん中を犬が流れていたのだ。
普通の人間ならこんなとき、まず消防に連絡するか警察を呼ぶかという反応をする。
だが、椎名鷹介は普通ではなかった。
考えるより早く、鷹介は橋の欄干を飛び越えていた。
予想外に深い川の中、暴れる子犬を捕まえ、どうにかこうにか一段高い護岸の上に押し上げた瞬間。
「うわっ!」
いきなり大量の水が押し寄せたのだ。
子犬を上げるために不安定な体勢だった鷹介は足をすくわれ、そのまま流される。
この川の少し上流に汚水処理場があってときどき大量に放水する、なんてことを鷹介が知るはずもない。
ましてやこの川がすぐ先で地下に潜っているなんてことも彼は知らなかったのだった。

そんなわけで鷹介はこの暗渠(川が地下に埋設されている部分)を歩いていた。
落ちた場所からはまだ滝のように水が噴き出していて戻れず、仕方なく下流に向けて歩くことにしたのだが、これが意外と長くて二つ目のカーブを曲がる頃には右も左もわからないくらい真っ暗になっていた。
幸い地下水路は幅が広いため流れが穏やかになっている。水深も鷹介の膝くらいの高さなのでおぼれる心配はない。
(一甲、まだ待っててくれてんのかな・・・)
泣きたいくらい情けない気分だった。
どう考えても一甲との約束の時間は過ぎてしまっただろう。
連絡をしようと取りだした携帯電話は水に浸かったせいで完璧に沈黙してしまっていて役に立たない。もっとも、この地下では電波は届かないだろうけれど。
おまけに頭のてっぺんから足の先までびしょ濡れかつ泥だらけ。こんな状態ではとてもデートになんかならない。
それでも、とにかくここから出るしかない。
暗路脱出のセオリーどおりに左手を壁につけて進む。
時々、なにか小さい生き物の気配がするがあえてそれは気にしないことにした。
それよりもぬかるんだ水底に足を取られないことが重要だ。
これが存外に骨の折れることで、一生懸命歩いている割にはちっとも前に進まない。
「ふう・・・ん?!」
何度目かのため息をつきかけて、鷹介は息を止めた。
鷹介の正面、闇の向こうからかすかに足音がする。
とっさに気配を殺して、壁に身体をつける。
ざぶざぶと水を掻き分けて進んでくるその音はかなり大きな生き物・・・おそらくは人間だ。
しかしこの地下水路に一体誰が?
永遠にも思える沈黙。
時間にすればほんの三秒ほどだっただろう。
闇の向こうに小さな光点が灯った。
それとともに感じられる気配。
「・・・一甲・・・?」
鷹介は呟いた。
「鷹介!」
はっきりと返事があった。
それでも空耳だと鷹介は思った。
そんなはずはない。
一甲はまだあの場所で鷹介を待っているはずだ。
だが、水を跳ね飛ばすような勢いで近づいてくる人影は?
ぼんやりとしていた光点は瞬く間に大きくなり、次の瞬間、その顔が目の前にあった。
「一甲・・・」
呆然とその名前を口にすると同時に鷹介はぎゅっと抱きしめられる。
「無事でよかった」
そう耳元で囁かれ、ようやくそれが本物の一甲だと理解した。
「ごめん・・・」
まだうまく回らない頭で、それだけ言うと暖い唇が鷹介の唇に触れる。
うっとりとそのキスを受け取りかけ・・・慌てて鷹介は顔を離した。
「鷹介?」
不審、というより不満げな一甲の声。
うー、と鷹介は唸った。
「今キスしたら一甲、ハラ壊すかも・・・」
言いにくそうにそう言った鷹介の顔を一甲は手にした端末の光をかざして覗き込んだ。
頭のてっぺんから水が滴っている。もちろんそれはこの非衛生的な川の水だ。
だが、一甲はクスリと笑って再び顔を寄せた。
「俺の腹はそんなにヤワじゃない」
「知らねーぞ」
「もしもの時は特製の煎じ薬を作ってやる」
「うえ、それは勘弁・・・ん・・・」
闇の中でそれよりも濃い二つの影がゆっくりと重なった。

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